春 7
不意に涙が滲みそうになって、慌てて目を瞑った。
だけど、苦しい。我慢しても苦しい。
心臓とか、肺とか、胃とか、いろんなものがぐちゃぐちゃになっている気がする。その全部が喉につっかえていて、息が苦しい。
苦しい。水底に引きずられていくように、息が上手くできない。水面を見失って、空気が零れていく。
なんで、どうして、草薙の手がこれほど心地良いのか。かき乱さないで欲しいのに。どうか、頼むからやめてくれ。苦しいんだ。
「神谷」
肩を震わせて神谷は動かない。いや、動けない。
何をいわれるのかと身構えて、実在しない恐怖に怯えた背を、草薙はぽんぽんと撫でた。そうして神谷の頭を乱暴な手つきで引き寄せ、その上に顎を乗せる。
神谷の視界には草薙の体しか映らなくなった。誰の視界にも、神谷の顔は映らなくなった。
「痛いときは痛いっていえ。神谷。」
何度も言った言葉を、草薙はもう一度繰り返していった。
「俺はここで、お前の声を聞いてるから」
「………っ……ぁ」
やめてくれといいたかった。なのに、口から出るのは言葉にならない嗚咽だけで。無様な、涙の滲んだ声だけで、それを必死で堪えようとするのに、草薙がまるで子供をあやすように背中をさするから。
ぽんぽんと、寝付けない子供を宥めるような暖かな手で、神谷に触れるから。
「おれ……は…っ」
ずっと喉でつっかえていたのに、とめていたのに、溢れ出してしまう。
「……痛ぇよ…やめてっ…くれ。苦しいんだ、苦しいんだ、苦しいんだよ!俺に構うなよ!……本当はうざったかったんだろ!?なら、最初から……最初からそういってくれれば良かったのに!!」
ああ、違う。これはこの人にいうべきことじゃない。この人にいいたいことじゃない。
だけど、目の前の人が、優しかったあの人とだぶる。優しかった、人と。
「パスが出せるもんなら出したかったよ!でも誰もいねえから…だから…っ!チームワークって、抜かせるのに抜かすなってことかよ……なら最初からそういえよ!期待させんなよ!!」
最初からいってほしかった。後になって、いまさら、後になってそれが本音だなんて、そんなのはないだろう?
頬がベタベタと気持ち悪く濡れて、自分がボロボロ泣いている事に気づいたけれど、もうどうでもよかった。涙を拭おうとも思わなかった。
(白く塗りつぶした世界が)
壊れてしまったと、思った。時間をかけて必死で築き上げたのに。誰も入ってこない静かな世界を、作り上げたのに。
壊れてしまった。草薙が、あんまり温かいから、壊れてしまった。
そう思って、神谷はまた泣いた。
「俺の本音を教えてやろうか?」
かすかな嗚咽だけが響く、静まり返った部室の中で、草薙はいつも通りの軽い口調でいった。
「神谷くんに特別に教えてやろう」
まんべんなく偉そうな態度で、神谷を腕の中に抱え込んだまま、草薙は無意味に胸を張った。
「お前に無視されるのがむかつくから、殴ってでも蹴り倒してでも、お前に喋らせてえ」
「─────── はぁ?」
思わずといったふうに、間の抜けた声を上げたのは、神谷ではなかった。
周りで息を詰めて見守っていた田辺が、呆気にとられた顔で零したのだ。自分の耳を疑うような顔をしているのは田辺だけではなく、松木も似たり寄ったりの表情をしている。動じない、というか、呆れたような顔をしているのは岩上だけだ。
「なんすかそれ。なに言い出すんですか!?」
「だから俺の本音」
年上の先輩でなければ胸倉を掴んで問い詰めていそうな勢いで、田辺が叫んだが、草薙はいたって平然としている。
「ふざけないでくださいよ!」
「そうですよ!冗談は時と場合を考えていってください!」
「もうちょっと言い方ってもんがあるでしょう!」
喧々轟々の批難を一身に浴びても、草薙はうるさそうに手を振っただけだった。
「冗談じゃねえよ。何が悪いんだ、本当の事をいっただけだろうが」
「草薙さん!!」
松木がますますいきり立ったそのとき、小さな笑い声がした。
「それが……本音なんですか……?」
堪えきれずといったように笑いながら、神谷が尋ねる。
「ああ」
「アンタ、馬鹿ですか」
「殴るぞ」
左手で神谷を抱え込んだまま、右手で脇腹をくすぐるように突っつけば、笑い声はますます大きくなった。
「草薙さん」
「んー?」
「頭が重いです」
「そーか。そりゃよかった」
「着替えたいんですけど」
「ザマーミロ」
もはや会話になっていない。それでも神谷の声は、普段よりずっと明るく、楽しそうだった。
なぜか打ち解けている二人に、どうしていいのかわからず一年生二人は岩上を見た。その縋るような視線を受けて、腐れ縁の男は、やれやれと首を振っていった。
「あのな、こいつはちょっとじゃなく馬鹿なんだ。そのうえアホで自信過剰なんだ。だから何をいっても、あまり気にしないほうがいい」
「順司ィ?テメェ、なに好き勝手いってやがる。誰が馬鹿でアホで自信過剰だ」
「お前」
この野郎と草薙が怒りを込めて呟けば、笑い声がひときわ大きくなった。
「やめてくださいよ、笑うと腹が痛いんですよ…っ」
「京悟、少し蹴りすぎたんじゃないか?」
「あーん?大丈夫、大丈夫。でかい痣ができてしばらく痛むくらいだから」
「ひでえ、それのどこが大丈夫なんですか?」
「内臓はイってねえよ」
恐ろしい事をさらっと口にした草薙に、田辺が目を剥いた。だが神谷は、「今日は湿布をして寝ます」といって、また笑った。
草薙の腕から抜け出して、神谷が笑う。それは鮮やかなほど屈託のない笑顔だった。
春編はこれで完結です。ようやく夏へ。