「こうなることは、初めからわかっていただろ」
 眼差しにも声音にも険があるのは、仕方のないことだと、光岡は思った。
 それで少しは懲りた顔でもしてくれれば、まだ慰めようかという気にもなるのに、当の本人は苛立った顔で睨みつけてくるだけだった。
 苛立つのも無理はない、だが、こうなることは彼にもわかっていたはずだ。
「いいかげん諦めて日本に帰れ、神谷」
「嫌です」
 単純明快、あっさりはっきり、神谷篤司は言い切った。



涙の壺
  


 何を考えたんだかさっぱりわからないが、神谷篤司は高校卒業後ブラジルに来てしまった。
 そして入団テストをあっさりとパスして、気づいたら何故か同じチームにいた。
 その時点で光岡は止めたのだ。
 神谷の実力はわかっているしこれからの可能性についても楽しみにしていた。だから、力量不足だというつもりはない、けれどブラジルは避けるべきだった。ブラジルの太陽とまでいわれる男が、一度その故郷を捨てて日本にいってしまったことを、誰も忘れていない。
 戻ってきたとはいえ、日本への反発は深く残ってしまった。
 だから、とめたのだ。
 一度日本を出てしまって簡単に戻れない神谷の気持ちもわかる。だからそれなら、ヨーロッパのチームを紹介するからそちらに移ればいいと、何度も説得したのに。
 真性頑固な日本人は、数々の忠告を全く無視してチームに残った。
「パスはこない、嫌がらせはされる、あげくの果てに乱闘騒ぎで一週間の謹慎をくらう。いいかげんお前にもわかっただろう、歓迎されてないんだよ」
 きつい言い方だとわかっていても、とめられない。埃の積もった蛍光灯の下、薄暗いロッカールームの中で、光岡は最終通告にきたのだ。
 今まであえて神谷を庇うことはしなかった。自分の影響力をわかっていながら放置していたのは、これで神谷がわかってくれればいいと考えていたからだ。ここでは環境が悪すぎて神谷を活かせない、早く、神谷がそれに気づいてここを出る決心をしてくれたら、そのときは力になろうと決めていた。
 なのに、三ヶ月たった今まだ、神谷はその気配すら見せなかった。
 光岡が密かに苛立っている中、神谷が乱闘騒ぎを起こして一週間の謹慎をくらったと聞いて、もう駄目だと思った。
 いつまでも神谷がここにいる気なら、いっそ自分の手で消えない傷を与えてでも、ここから出る気にしようと決めてきた。
 それが、唯一で最善の道。
「歓迎されてるなんて思ってませんよ。それでも」
「それでも?それでもそのうち態度が変わってくるだろうと?いいかげん現実を見たらどうだ」
 状況は悪化する一方だろうという光岡に、神谷は少しわらった。
「現実を見てないのはアンタのほうでしょう、光岡さん。どうしてそんなに俺を追い出したいんです?」
「何度もいっただろ、神谷の力を惜しんでるんだよ」
「嘘だ」
 座ったままの神谷は、顔をあげて光岡を見ると、口をゆがめて笑った。

「アンタは俺が邪魔なんでしょう?」

 勝ち誇った顔で、禁忌の箱を開けてしまったのは、神谷のほうだった。
 誰一人味方のいない環境に追い詰められていたのかそれとも、そこに立つ男に追い詰められていたのか。
 互いにわかっていながら決して手を触れなかった、その汚れた心を封じ込めた箱を、開けて神谷は笑う。
「チームのためでも俺のためでもなく、アンタは自分のために俺を追い出したいんだ」
 沈黙は、短かった。
 神谷の指摘は本当のことだったから、受け流すことも笑い飛ばすことも出来ず、まして傷を甘んじて受けることなど出来なかった。
 先に、選んだのは神谷だ。
 報復をする権利が、光岡にはある。
 愛想のいい顔も、先輩としての顔も、全て剥ぎ取られた本性の男が、ゆっくりと答えた。
「ああ、そうだな。俺はお前が目障りだ」
 わざとゆっくりと、より深く傷を与えようと、囁くように告げる。
「神谷篤司が目障りなんだよ。いつまでもいつまでも、死人を想ってる奴なんか見ると反吐が出そうだ。甘えたガキが。いつまで終わったことを考えていれば気がすむ?必死で皆が前を見てるのに、おまえだけがいつまでも過去にしがみついて」
「誰のことを言ってるんですか」
 神谷の弱点を光岡が知っているように、神谷もまた、光岡が何に捕らわれているか知っていた。
 互いのことなどなにもわからないのにに、その心の汚泥のみを理解できてしまう。
「過去にしがみついてるのは、俺じゃなくてアンタでしょう、光岡さん。そんなに父親が憎いんですか、それとも母親が?・・・・・何より無力だった自分が?」
 光岡の過去は、噂だけなら神谷にも伝わっていた。
 そうして神谷は理解した。まるで心を読むかのように、一番触れてほしくないところを見抜く目は、褐色の肌の男もまた、それを知っているからなのだと。
 どれほどプレイが似ていても気質はまるで彼とは違う。どこまでも溶け合えると思った亡き人とは違う。なにもかも、神谷とは相容れない性質の男。
 それでも。
 心の深く暗いところで、互いを知っている。
(・・・・・たぶん、俺たちは、気質も考え方もなにもかも違う俺たちは、たった一つの共通項でよく似ているのだ・・・・・)
 それは後悔。
「アンタが俺を嫌うのは、アンタが見たくないものを俺が見せつけるからだ。俺がアンタを通して久保を見るから、アンタは俺が憎いんでしょう?」
 もはや、虚勢を張るだけの力は神谷にはなかった。
 疲れていたのかもしれないと思う。そうでなければ、決して禁忌の箱を開けることなどなかっただろうに。
 それはまた、光岡にも同じことで。
 傷つけたかったわけじゃなかった。今も、傷つけたいわけじゃない。
 だから必死で、うわべだけの会話で、回り道を探していたのに。こんなふうに、傷つけあいたくはなかったから。
(でももう遅い・・・・)
 光岡は目を閉じる。後悔だけはしたくないと思って生きてきて、なのにどうして気づけば後悔ばかりが降り積もる。
 神谷の声が歪むように、光岡の心も痛みに悲鳴をあげている。
 神谷が久保を忘れられない気持ちは、よくわかった。最初はただの同情だったそれは、次第に、思い出したくないものを、封印していた気持ちの蓋をどんどん開けていった。
 だから。
 そう、だから、必死で遠ざけようとしていたのに。
「お前が俺を見るたび、俺を通して久保を見ようとするたびに、俺は全て捨てたくなる。ここまで必死にやってきて得た全てが、俺にはふさわしくないような気になる。・・・・・母さんを見捨てて隠れていた俺が幸福を感じるなんて、許されない気持ちになるんだ・・・・・」
 顔を覆う。ロッカーにもたれて、何とかそれで立っている。
「どうしてブラジルに来たんだ神谷。俺がお前を傷つけることくらい、わかってただろう」
 この距離が悪いのだ。手を伸ばせば触れられる、この距離が。
 もっと離れていれば、互いを認め合うことも出来ただろう。消して傷つかない関係を保つことが出来ただろう。
 今はあまりに近すぎる。
 手を伸ばせば、触れてしまう。
「あんたがブラジルにいるから、来たんですよ・・・・・俺はもう一度、久保にパスを出したかったんだ・・・・・・それが悪いことかよ、いけないことかよ!あんたを通して久保を見て何が悪い!俺は俺の好きに生きてやると決めたんだ・・・・・・」
 俺は悪くないと叫びながら、神谷の顔は歪んでいく。
 光岡を傷を与えたいわけじゃなかった。
「・・・・いいかげんにしろ。いつまで甘えてるんだ神谷!後悔がなんになる!?過去にしがみついてなんになる!?・・・・・前を、前を見なきゃならない歳だろ、お互い・・・・・・」
 それは同時に、自分自身への言葉。
「・・・・・・・誰に言ってるんですか・・・・・・・」 
 神谷に言っているのか自分に言っているのかわからない叫びに、神谷はほんの少しだけ笑った。
 薄暗い部室。貧しくとも朗らかな人々。誰もがうらやむ力を手に入れて泣きつづける子供。泣くことにすら疲れて幻想に縋った男。

 
 ともに一人ぼっち。
 触れた部分でようやく相手を知る。









(・・・・光が、光が欲しい・・・・・)

 褐色の肌の男は、暗い底から聞こえる幼い泣き声に絡みつかれて、切望する。

(・・・・光なんてない、それでもいい・・・・・・)

 きつい目をした男は、体の力を抜いて、その意志を思い出す。













 光岡は顔を覆った手を離そうとしなかった。
 グシャグシャになってしまった顔を、さらけだせるほど強くなかった。
「・・・・・・・・・・・なんで、俺だけ泣いてるんだ・・・・・」
 いじけた声で、光岡が呟いた。
「泣けよ、神谷。泣きたいだろ・・・・」
「泣かない」
 はっきりと返された言葉が、消えかけていた苛立ちに火をつけた。
「泣けよ!そうやっていつまでもぐずぐず久保を想ってるつもりか!?そうだな、久保を想ってれば何も考えずにすむからな。辛くなれば久保に逃げて、ひとりになった自分を哀れんで!久保もあの世でたいそう喜んでるだろうな!!」
「そんなんじゃねえよ!」
 返ってきた言葉は激しく、その意外さに光岡は面食らう。
 泣けない自分を哀れんでいるのでなければ、なんだというのか。
「・・・・・・・・・・・・・・・・俺、結構、占いとか信じるほうなんだ・・・・・・」
 決まり悪げに目を逸らして、小さくいわれた言葉は突拍子もなかった。
「・・・・はあ?」
「だから!だから・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・涙の壺の話、知ってる?」
「涙の壺?」
 頷いて、神谷は右ひざを抱え込んで下を向いた。
「昔、幼い子供を亡くした母親がいて・・・・・・・その人は泣くんだ。悲しくて、悲しくて、毎日毎日泣いた。子供の墓の前で泣き暮らしていたその人はある晩、ちいさな子供が何人も歩いていくのを見る。その中に死んだはずの自分の子供がいて、その人が駆け寄ると、その子が壺を抱えているのがわかるんだ。中にたっぷりと水の入った、重い壺を。中に入っていた水は、何だと思う?」
「・・・・・・涙、か?」
「そう、その人の涙。・・・・・・・・・・久保が死んでから、不意に、思い出して・・・・・」
 前に、前に進もうとしても、どこが前なのかわからない。
 常に光をくれた人はいなくなって、暗い迷路の中で神谷はただ立ちつくす。
「考えて考えて、俺は結局なにもわからなかった。何が最善で、どれが正しい道なのかわからなかったんだ。・・・・・だからもう、正しさなどいらない」
 迷いは常に、この身の中に。
 それでも神谷は、もう泣かないと決めた。
「もう久保のためには泣かない。好き勝手やって死んだアイツのためになんか、泣かない。それで久保が恨もうと喜ぼうと知ったことか。正しさなんかいらない、俺は俺の好きなように生きてやる」
 久保は幸せだったのだと、思おう。
 だから俺も幸せになるのだと、思おう。
 永遠に失われた答えは、死んでから久保に聞けばいい。今はだから。
「久保を想っては二度と泣かない。でも想うことはやめられねえから、だから」
 自分自身に言い聞かせるように、一言一言噛み締めて、神谷は言い切った。
「俺は笑うと、決めたんだ」

 泣き顔にちかい顔を懸命に動かして、神谷は、笑った。

 壮絶に、笑んで、見せた。










 彼の本性は炎。
 焼き尽くし、暖め、駆り立てる火。そして光。
(冗談じゃない・・・・・・・)
 なんて顔で笑うのか。なんて顔で、よりによって光岡に。
(冗談じゃない・・・・・)
 見惚れてしまったなんて、口が裂けてもいえない。 
 炎のような笑みが、その力が、この心臓を焼いたなんて、死んでも認めてやるものか。
 けれどもう、泣き声は聞えない。
 悪夢すら、その炎に喰われた。
「それで・・・・・・結局、考えは変わらないんだな?」
「変わりませんよ」
 まだいうかといいたげな顔でこちらを見る神谷に、光岡は事務的に言った。
「ならもっとうまくやれ」
「・・・・・・は?」
 きょとんとする神谷に、薄く笑う。
「利用できるものは利用しろ。馬鹿にいちいち付き合うな、時間の無駄だ。実力をもっと効果的に見せつけろ。神谷は要領が悪すぎる」
「要領って、光岡さん・・・・なに言い出す」
 んですかという声を遮って、光岡は顔色一つ変えず言い放った。
「味方してやるといってるんだ。中立でいるのも飽きたしな。相手の力量も見抜けない連中にお前が振り回されるなんて、見るに堪えない」
 傲慢なまでに誓う言葉に、神谷はあっけに取られた。


 やがて光岡を見て、視線がぶつかって。


 その目に、偽りのないことを知って。


 神谷は、ゆっくりと、安堵したように、柔らかに、笑った。








(だから、そういう顔をするんじゃない・・・・・!)
 冗談じゃない、冗談じゃないのだ。
 これ以上負けてたまるか。




 それでも。




 光岡は目を瞑る。





 それでもこの心一つで傍に在り続けて見せようか。
 たとえそれが互いを傷つけあうのと同義でも。

 いつか、全ての痛みを乗り越える、その日まで傍に。

 ともに。











 



 すごく久々に光神を書きました。あと百年ぐらいしないとくっつきそうにない二人ですが。
 ええと、光岡がよわよわです。攻めが泣くのって好きなんですが(笑)光岡は、黒くて地位を持っていて王者っぽい傲慢さに惹かれたんですが、書くと何故かよわくなります。
 暗い過去持ちの光岡は書いててかなり楽しいです(笑)真っ黒で傲慢なトコと、いまだ泣きつづける子供が内にいるとこの二面性がうまくかけるといいなあと、思いつつ。