久保に初めて会ったのは、三年前の夏だった。




カウント・ゼロ 3






 軽いベルの音とともに、喫茶店の中に入った。
「神谷くん」
 控えめな声は、それでも空いている店内では良く通り、神谷は迷うことなくそちらへ足を向けた。
「悪い、遅くなった」
「あら、私の時計では時間ピッタリよ?」
 思わず顔を上げれば、美奈子はにっこりと笑った。
「何か食べてきた、わけないわね。なにがいいかな、神谷くん甘いのは苦手だったよね」
「悪いけど、食事する暇は」
「あるの。ああ、お金の心配はしなくていいわよ、斉木さんからたんまりもらってきたから」
「たんまり・・・・・・・・・・・・」
 なにやってんだあの人は、と心の中で毒づいた。
 いつの間にか、神谷の健康管理において斉木と彼女は結託しつつあるらしい。
 この前なにを食べたとか、また栄養剤だけで済ませたとか、ろくでもない情報ばかり美奈子に流れている。
 それでも、その先へ、流さないでくれるのは有り難いから、神谷はこうなると大人しく食事をするしかなかった。
「金は自分で払うよ。北原さんはもう食べたの?」
「まだよ、なににしようかしら」
「俺は同じ物でいいよ・・・・」
 楽しそうにメニューをめくる彼女に、神谷は疲れたように肩を落とした。
 実際、疲労はたまっている。そして美奈子はそれを見抜いている。
 この蓄積された疲労を少しでも和らげない限り、彼女は自分を解放してくれないだろう。つまり、健全な食事と適度の休憩だ。
 美奈子がウェイトレスに注文をし終えてから、神谷はぼんやりと口を開いた。
「久保は・・・・・?」
「元気よ。まだ、元気。神谷くんのおかげね」
 神谷はゆるゆると首を横に振った。
 それが事実ではないことは、美奈子もわかっているはずだった。自分のおかげなどではない。自分は何もできていない。
 今はただ、運がいいだけだ。
 ただの世辞を必要とするほど浅い関係ではないはずだが、神谷は言及しようとは思わなかった。
 ただの世辞を、そんなありふれた、普通の会話を、美奈子は必要としているのかもしれないと思った。
 その気持ちは、神谷にもわかる。張りのある硬めの背もたれは、それでも疲れた体に心地よく、神谷は深く息を吐き出した。










 カウント・ゼロというのは、通称である。
 誰が呼び出したのかはわからない。だが今では正式名称よりも一般的な、この病の呼び名だった。
 今から六年前。神谷がまだ、普通の子供らしく中学へ通っていたころだ。
 そのウィルスは、唐突に、人間に牙をむいた。
 感染ルートは最も最悪な空気感染。致死率はほぼ百パーセント。六年たった今でも、特効薬は発見されていない。
 何より研究者達の手を焼いたのは、このウィルスが、人の体内で変化することだった。熱帯地方でも氷土でも死なないウィルスは、風に運ばれ、今では発病していない人間の99%がキャリアだといわれている。
 だが、発病から実際に死亡するまでのケースは、個々により、何百と違う例を持つ。
 極端な話、六年立った今でも生きている患者もいるし、発病から一時間で死亡したケースもあった。
 カウント・ゼロというのは通称である。
 死に至るまでの時間。カウントが、ゼロに等しいほど短い病だとも、いわれている。 











 自分も、おそらくは彼女も、キャリアだろう。
 それでも発病せずに、普通に生きている。
 一時は自殺者が急増し治安もひどく悪化したが、今ではもう、その活気すらあまりない。
 あるのはただ、諦めだ。
 昔、久保が発病するより昔、久保に会うより昔、神谷は発病を怖いと思ったことが無かった。だけど今は怖い。
 もしも自分が発病してしまったら、誰が薬を、誰が久保を助けるのか。怖いのだ。どうしようもなく怖い。
 いつ発病するかは誰にもわからない。
 だから、とにかく時間がおしかった。
 休憩も食事も、終わってから取ればいいと思う。薬が完成してからなら、いくらでも。
「だめよ」
 尖っていく神谷の眼を宥めるように、静かな声がいった。
「・・・・・・北原さん?」
「焦っちゃだめ。神谷くんが今出来ることはね、この料理を残さず食べて、それから少し眠ることよ」
「北原さん」
 強い口調で読んでも、彼女の笑みは崩れなかった。
「いうわよ?」
 誰に、とは言わない。いわれなくてもわかる。
 神谷がこの状況を、ろくに寝ても食べてもいないのだということを、知られたくない人間は一人だ。
「・・・・・・・わかった」
 しぶしぶと、フォークを取る。
(仕方ない)
 美奈子が、言うなら。
 自分と同じほどの焦りをもっている彼女が、それでも、焦るなというなら。

 神谷は黙って、クリーム色のパスタを口に運んだ。















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