一歩進んで、半歩下がるような。






例えようのない階段を








 坂本が、猫を飼いだした。

 といっても子猫ではなく、長年野良で生きてきたんだよこの野郎といわんばかりの、目つきの悪い成猫である。
「うわ、たまさんストップストップ!」
(なにがストップストップだそんな猫放り投げちまえ!!)
 ぶた猫め!!というのは葛西の心の罵りである。
 握った拳が動揺のあまりかすかに震えている葛西に気づくことなく、坂本はのっしのっしと体の上に登ってきた猫を、優しい手つきで引き剥がそうとしている。
(俺がしたらフライパンで殴るくせに!!)
 素手では葛西のほうが強いからと容赦なくフライパンで葛西を叩き落す。俺はハエか!?と叫んで似たようなもんだろとそっけなくいわれたのも、そう昔のことではない。
 しかしぶた猫は何をしても許される。
 体に乗っても顔を舐めても指にじゃれついても、何をしても許されている。こんな差別が許されていいのか!?と葛西はストレスを溜める一方である。
 しかもこの、たまさん、は、あからさまに確信犯なのだ。
 震える右手でコーヒーカップを置く。ちらと目を向ければ、坂本の膝の上に落ち着いたたまさんと目があった。
 小馬鹿にした顔で、にゃおんと坂本の体にすりよる。
(…いつか殺す!ゼッテエ殺す!!)
 しかしそんなことをしたら、確実に葛西が坂本に殺される。
「なんだ、たまさん眠かったのか?」
 ひどく優しい顔で坂本がたまさんを撫でている。
(ああ俺も猫に生まれればよかった・・・!)
 葛西の考えもちょっと変だ。
「だいたい、なんだよたまさんて」
「んあ?なんかいったか?」
「猫をさん付けで呼ぶお前の気持ちがわかんねえつったんだよ」
 しかもそんなぶた猫を!とはいわないでおく。ぶた猫と坂本の前で言うと、たまさんに失礼だろ!と怒られるからだ。
「たまでいいだろ、たまで」
「でもたまさんは長生きなんだぞ?人間でいったら、うーん、50歳くらいかなあ?」
「80過ぎたババアの間違いだろ」
 そう葛西がいうと、たまさんが悲しそうな声で鳴いた。
「なんてこというんだよお前!たまさんは女の人なんだぞ!!失礼だろうが!!」
「騙されてんじゃねえよ!そいつゼッテエわかっててやってんだよ!!」
「そうだよ、たまさんは賢いんだよ。わかってんならそういうこというんじゃねえよ、たまさんが傷つくだろ」
「違うっつーの!!」
 どんなに叫んでも坂本はいっこうに理解してくれなかった。完全に騙されている。
 震える手で新聞を掲げる。あまりたまさんを、というかたまさんに構う坂本を見ていると、本当にたまさんの首をやってしまいそうになるからだ。
 しかしちらと新聞の上から見た瞬間、明らかに人を馬鹿にしきった目のたまさんと目があってしまった。
 殺意がふつふつと沸く。
 たまさんはもともと野良だった。それが二週間ほど前にふらりと餌を求めてやってきて、密かに動物好きの坂本せっせと餌をやっていたら住み着いてしまったのだ。
 野良で生きてきた貫禄、とでもいうのだろうか。たまさんは実にふてぶてしい猫だった。しかし坂本はそういうたまさんが好きらしく、たまさんが多少横暴に振舞っても笑っているだけだった。
 そのうち坂本の前でのみ、それこそ猫を少しは被るようになり、坂本とたまさんはそこそこ上手くやっていた。
 しかし、である。葛西とは最初から馬が合わなかった。半同棲のようなことをしていた葛西は、それでも坂本のうちだからとおおっぴらに反対も出来ずにいたが、ふてぶてしいタマさんが大嫌いだった。
 どうやらたまさんも同感だったらしく、なにかにつけては坂本との間を邪魔する。
 坂本に手を出そうとすれば足元でじゃれだし、ベッドに引きずり込もうとすれば餌を求めて大声で鳴き出す。おかげでここ数日、キスもちゃんとしていない。
 何より最悪なことは、坂本が葛西よりたまさんを優先しがちだという実に腹立たしい事実だ。

 葛西にできることといえば、せいぜい猫用のミルクを賞味期限の切れたミルクと取り替えたり、キャットフードにドッグフードを混ぜてみたり、見えなかった振りをして尻尾をふんずけたりすることくらいである。
 そしてそのほとんどが失敗に終わった。ハエと間違えた振りをして丸めた新聞でたまさんを叩いた時は、坂本に散々怒られたあげく目の病気を疑われた。

(負けてたまるか!)
 葛西が無駄に闘志を燃やし、おそらくたまさんも無駄に闘志を燃やしていた。








 そんな、坂本の目から隠れたところで攻防が続いていた、ある日のこと。









「………………ぶた猫は?」
 いつもなら玄関に入った時点で侵入者とみなされ、うるさい鳴き声がフローリングの廊下に響き渡るのに、今日は10秒待っても聞こえない。うっかりぶた猫といってしまった葛西は、坂本の反応を思って反射的に首をすくめた。
 けれど、返ってきたのは静かな声だった。
「いない。どっかいったみたいだ」
「どっかって……帰ってこねえのか?」
「もともと、野良だからな」
 仕方ないと、坂本はソファに座りこんだまま答えた。
「…坂本?」
 振り向かない後姿に、胸がざわつく。嫌な苦さが、全身を回った。
「なんだよ」
「……大丈夫か?」
「大丈夫って、なにが」
 坂本の声は相変わらず静かで、厭わしいほどに落ち着いていた。
 葛西は無言で歩み寄り、ソファの背に手をおいた。
 けれど坂本は振り向かない。
 大丈夫かときいた、理由は自分でもわからない。ただ、坂本は、何かしら負の感情を抱え込むと静かになる事を、十年来の付き合いで葛西は知っていた。
 静かになる。苛立ちも落ち込みも見せない。ただ静かに。
 笑う。
「どうせ明日には帰ってくるって。あの図々しい猫が、餌くれる場所を忘れるわけがねえだろ」
「…どうかな。野良だぞ?」
「元、野良だ。今じゃすっかり飼い猫みてえなもんだろ。明日にはふてぶてしい顔で餌ねだりにくるさ」
 そう言うと、坂本は小さく苦笑して、顔を上げて葛西を見た。 
「でも帰ってこねえかもしれない」
 声は、やけに淡々としていた。
「野良だから。俺にとめる方法なんてねえんだ。でも怒る気はしない。探す気もねえよ。ただ……」
「ただ?」
「ちょっと辛い」
 坂本は、まるでたいしたことのないように、そういった。その声が、嫌だった。 
(やめろ)
 これ以上なにも聞きたくなかった。自分でもわけのわからない衝動に動かされて、その口を封じる。もう黙って欲しい。これ以上、なにもいわなくていいから。
 深く口付けて、衝動を欲望にすり替えようとした。
「……葛西、やめろ」
「いいだろ」
「よくねえよ、やめろ…っ」
 苛立った葛西の腕が、坂本を無理やり拘束するより早く、静かな声が響いた。

「だって、おまえも野良だろ」

 その目が。
 その目が、あまりに深かったので。
 息が、とまった。








 凍りついた体の、ぼんやりとした頭の片隅で、その言葉を聞きたくなかったのだと気づいた。























 綾音様からのリクエストは、『葛西坂本でラブラブな話』………わかってる!わかってるからなにもいわないでごめんなさい。しかもまた続いちゃってごめんなさい…でもほとんど書き上がっているので、早めにアップします…!

 後編