条件反射
煙草を取り出し、ポケットの中のライターに手を伸ばすより早く、横から火が差し出される。
坂本はあまり火をつけてもらうのが好きではない。好きではないけれど、嬉しそうな顔で差し出された火を断ることもまたできない。
なんともいえない顔で火をもらうと、隣の男が苦笑しているのがわかる。
坂本がそれに文句をいおうと口を開いた時、火を差し出した一年が尋ねた。
「坂本さん、手首んトコ、どうかしたんスか?」
「手首?」
なんのことかと右手首を見れば、そこにあるのは、うっすらとした傷跡。
「ああ、これか?前に、ちょっとな」
「喧嘩ッスか!?」
「喧嘩っつーか…」
坂本が口篭もると、離れたところに座っていたはずのリンがちょうど近寄ってきて、嬉しそうな声をあげた。
「なーにコソコソ話してんだよ!」
「なんでもねえよ」
「隠すな隠すな!なんの話だよ?女か?」
「坂本さんの手首のとこの傷跡、知ってますか?」
坂本がリンを追い払うより早く、一年が目を輝かせて聞いてしまった。
正道館の常識において、傷跡は修羅場をくぐりぬけた事を証明する、価値ある証だ。
ましてそれが葛西の親友である坂本ともなれば、どんな武勇伝が聞けるかと、一年が期待するのも無理はなかった。
「手首の傷跡…?」
眉根を寄せたリンの前に、坂本が諦めたように右手を振る。
途端に、リンの顔から血の気が引いた。
リンだけではなかった。会話をなんとなしに聞いていた周囲の三年たちも、水を打ったように一斉に静まり返った。
「──────……え?お、俺なんかまずい事いいました…!?」
静まり返ってしまったコアの中で、一年がうろたえきった顔で坂本を見た。手首の傷、といえば、真っ先に連想するのは。
「まさか──── !!」
「自殺未遂の後じゃねーよ」
「あ、よかった」
ほっと胸を撫で下ろした一年に、ようやく血の気が戻ってきたリンが叫んだ。
「坂本がそんなんするタマかよ!」
「だ、だって、リンさんと違って、坂本さん繊細そうっスから…」
「うーわー!!!騙されてる!!」
髪のない頭に手をやって叫ぶリンに、坂本は憮然とした顔でいった。
「騙されてるはねえだろ」
「いや!わかってねえよ!坂本の恐ろしさがわかってねえ!」
「本人前にして、恐ろしさとかいうかてめえは」
ますます不機嫌になる坂本を気にも止めずに、リンは話し始めた。
「いいか、よく聞けよ、その傷跡はな──────── 」
それはまだ、彼らが一年生だったころ。
坂本が、坂本ではなく、葛西のパシリ程度の認識しかされていなかったころの話。
その日はよく晴れていた。
その教室は、全ての窓にカーテンが引かれていたけれど。
油断していた事を認めないわけにはいかなかった。いくらアタマを潰したとはいえ、葛西にはまだまだ敵が多いことを、知っていたはずなのに。
右手首を見つめながら、坂本は密かに息を深く吸って、跳ね上がりそうな心臓を必死で抑えた。
恐怖に呑まれたら負けだ。
たとえ今、右手が手錠で繋がれ、床にみっともなく這いずっている状態であっても。感情のままじたばた足掻いて、よけいな力を使うわけにはいかない。
「葛西のオマケっつうから、どんな奴かと思えば…」
にやけた面が、上から覗き込んでくる。
「こんなひょろっちい奴かよ。なんの役に立ってんだか、わかりゃしねえなァ」
そんな奴に三人がかりでご丁寧に手錠つきのおまえらはなんだ、と怒鳴ってやりたがったが、坂本はあえて黙り込んだ。
手錠のもう一つの輪は、重さ何百キロもありそうな石の台の足に繋がれている。
(なんでこんなもんがあんだよ!)
使わない教室なんか全部燃やしちまえと、胸の内で毒づきながら、ヘラヘラした顔で見下ろしてくる連中を見返した。
「おとなしくしてりゃ、愉しませてやるからよ」
「そうそう、いい子にしてればな」
吐かれた台詞の意味は、三人のうち一番背の高い男が、明らかな意図で体に触れてきた時に理解した。
瞬間、暴れかける体を、渾身の力で押さえつける。
(まだだ……!)
落ち着け。冷静になれ。無駄な力を使うな。
まだ駄目だ。
呼び出されたことが罠だとわかっても、知らなくてはいけないことがある。
「大人しいもんだな、怯えてんのかァ?」
「手間が省けていいじゃねえか。さっさとやっちまおうぜ」
「意外とキレーな面してんなァ」
「殴りたくなるってか?」
上から吐き出される笑い声も、体中に這う手も、全て無視した。
無視することができた。坂本にそんな趣味はないし、できるなら殴り飛ばしていただろうが、それでも生理的な嫌悪感は意志で押さえつけることができた。
坂本にとって守るべきものは自分ではなかったから。
それでも心臓はぐちゃぐちゃだったし、荒れ狂う感情を抑えて冷静な声を出すのはひどく難しかった。
「葛西は…」
「アァ?」
「葛西は、どうした」
葛西が大変だからと、それだけでおびき出された自分も馬鹿だと思うけど。
けれど親友の無事だけは、知りたかった。あの男が今無事で、ピンピンしているなら、それなら。
(それならなんだよ)
堪えられるとでもいうのか。冗談じゃない。
(でも…)
自分でもおかしかった。おかしいほどに、葛西がこれ以上傷つかない事を欲している。
だが。
「あいつなら今、フクロにされてるぜ」
三人のうちの一人が、ズボンのベルトを外しながら、そういった。
瞬間、繋がれたままの右手首が痛んだ。
自分が強く腕を引っ張っているせいだと、頭の片隅で理解していた。
痛みはすぐにどうでもよくなった。
「助けが来なくて、残念だなあ」
三人のうちの一人が、笑いながらそういった。
右手を繰り返し引く。
これが邪魔だ。
手首から先の感覚が鈍くなってきたので、仕方ないから肘を動かして引いた。
最後の一人がなんといったのかは、覚えていない。
葛西。
(怪我が──── )
まだなおっていないのに。
肉と骨を抉ればこの枷は外れるだろう。
簡単な話だ。
こんなもので抑えられると、思ったのか。
触るな。許さない。赤い。赤いのは何。
流れ出る世界は赤くなに一つ愛しいものがない。
(いかねえと──── )
どこに?
深紅に浸された世界に足りないものは何。
邪魔だ。
邪魔だ。
(なんだこれ)
なんで繋がれてる。右手が動かない。
(動かせばいい)
ガチャガチャ煩い。煩い。煩い。煩い。
邪魔だ。
邪魔だ。
邪魔をするな。
続きます。
手錠大好き。ネクタイもベルトも大好き。さらに流血も大好きなので、非常に趣味に走った話になってます(汗)
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