「ったく、昼寝の邪魔しやがって」
服についた汚れを払いながら、葛西は腹立たしげに呟いた。
もっとも、目は言葉ほどは苛立っていない。むしろ呆れていた。
「こんなに弱くてよくやる気になりましたね、センパイ方」
周りにうずくまっている連中は、わざわざ喧嘩を売りにきた割に弱かった。だからこそ集団できたのだろうが、五、六人では話にならない。
あっさりと返り討ちにした葛西は、やれやれと腕を伸ばした。
適度な運動のおかげで眠気はすっかり消え去ってしまっている。
「どーすっかな」
たまには授業にでも行くかと、葛西が考えたとき、足元で呻き声がした。
「……い、いい気に…なるなよ…」
「それが、地べた這いつくばっていえる台詞ですか、センパイ?」
センパイ、と強調していってやると、男の顔が羞恥に歪んだ。
葛西はそれ以上見向きもせずに、立ち去ろうとした。
「……ハッ、ハハッ、てめえのダチは今ごろどうなってかなあ!」
「─────── どういう意味だ?」
「今ごろはケツ掘られてピーピー泣いてんじゃ──── 」
最後までいわせずに、男の腹に足を落とした。
(ダチ?)
この学校で、ダチなんていえる奴は一人しかいない────
「どこだ!?」
「しらね…ぐぁ…っ!」
男の腹をさらに数度蹴り飛ばす。だが男は泣きながら首を振るばかりだ。
「うあ…し、しらねえんだ…ほんとだ……」
全身から血の気が引くのがわかった。
(坂本────!)
葛西は踵を返して、校舎へ走り出した。
条件反射
騒ぎが聞こえたとき、西島は真っ先に教室を飛び出していた。
昼までは埋まっていたはずの椅子が、今は空だ。それにこんなに不安を感じているのは自分だけだろうとわかっていた。
坂本という男は、葛西のオマケ程度にしか思われていない。葛西の突出した強さと、本人が力を振るわないことによって。この学校では温和さや優しさなど価値を持たないというのに、陰口と嘲笑に気づいていないはずがないのに、あの男は静かに笑うだけだ。
それが西島には不可解でならない。
あの男は、強いはずだ。やりあったことはないが、あの目を見れば、あれがただの軟弱な男ではないことくらいわかる。
あれは余裕なのか、いつでも黙らせることはできるという。
(違う)
違う、あの男は、どこか異質だ。
嫌な予感がした。
煙草の吸殻があちこちの隅に捨てられている廊下を、少しずつ大きくなる声を頼りに走った。
影が伸びた廊下には、すでに数人の生徒と教師が立っていた。
「う、あぁ……たすけ……っ」
呻き声が微かに聞こえてくるのに、誰もが立ち竦んでいるように動かない。
「おい、なにやって──── っ!!」
見ているだけの生徒の肩を引いて、不自然に作られた輪の中へ身を押し込んだ西島は、彼らが動かなかったのではなく動けなかったのだと悟った。
おそらくは上級生が、三人、床に這いずりながら必死で何かから逃げようとしている。
立ち上がることも出来ない三人の目には、周りを囲んでいる人間など写っていないようだった。ただ恐怖に突き動かされて、手を伸ばし、指で床を引っ掻いている。
「さか、も、と────── ?」
そしてその先に、男が立っていた。
男は酷いありさまだった。左頬は赤く腫れ、こめかみからは血が流れて、制服のあちこちが切り裂かれている。なにより、右手首が酷かった。
何があったのか、皮膚が裂けて右手を真っ赤に染め、今も指先から血が滴っている。
かすかな音を立てて血の滴が血溜まりに落下する。親指の付け根辺りからは肉が見え、そこだけ薄紅のような色を保っているかと思えば、一瞬後には真紅に染まっていた。怪我など見慣れている西島でさえ眉をひそめるほど、荒れた傷だった。
だが西島が息を飲んだのは、その全ての傷と関係がなく、ただ男の気配に圧されたからだった。
怒ってるな、なんて可愛いものじゃない。全身に鳥肌が立つ。
(これが──── )
本当に、坂本か?
別人だといわれたほうが、まだ納得できる気がした。普段の穏やかさなど欠片もない。
怒り狂っている。
「うぁ──── っ!」
逃げようともがいていた一人の男が、膝を踏みにじられて悲鳴をあげた。
坂本もまた、周りを囲んでいる人間に見向きもしなかった。ただ、目の前の三人だけを自らの獲物だと定めているように、どれほど悲鳴をあげようとかまうことなく嬲りつづけている。
「や、やめなさい…!」
震える声で教師がいう。だがそんなものは、聞こえてもいないようだった。
「…い、いい加減にしとけよ!!」
坂本の気配に圧されながらも、一人の男が輪の中から出て近づく。西島には見覚えがあった。確か三年の、幹部クラスだったはずだ。
一年が三年を半殺しにしているのだ。見逃しては面子に関わるとでも思ったのだろう。
だが一瞬後、床に転がっていたのは三年のほうだった。
肩にかけられた手を、坂本はあっさりと振り払い、同時に三年の腹に拳を叩き込んだ。三年が床に尻餅をついても、坂本は容赦しなかった。その顔を殴りつけ、肩を蹴り飛ばし、それでもなお飽き足らないかのように背中を踏みにじった。
西島は苦い息を飲んだ。これが、これが本当にあの優しげな男か。
呻き声も上げなくなった三年を醒めた目で見下ろし、坂本は、ゆっくりと周囲を見回した。
暗い目が、立ち竦む人間たちを一撫でする。
( ──────── っ!)
息も、出来なかった。
心臓が凍りつき、そして飛び跳ねて動き出す。背筋が凍りついて、指一本動かすにも力が必要だった。
こめかみから、汗が伝う。
(なんだ)
なんだあれは。
なんの関心も払っていない目。それでいて恐ろしい。
内臓まで侵食される。なにも見てはいないくせに、溶岩のような熱を頭から浴びせられた。暗いマグマ。
あれが人の目か。
(あんなものが…)
人の持つ目なのか。あの暗さ。あの冷たさ。あの怒りの火。
(そうだ……)
人の目だ。人の目でなければなんだというのか、神か、悪魔か。違う。
あの激しさ、あのぞっとするほどの怒り。神でも悪魔でも飢えた獣でもない。
あれがあの男の眼だ。
全身が総毛だった瞬間、誰かが叫ぶ声が聞こえた。
「やめ……!」
同時に、鈍い音がした。
重く、それでいて軽い、骨の折れる音。
「坂本──── !」
だめだ。
あの男はもう、正気じゃない。
とめなくてはいけないと思いながら、足が動かなかった。
「おい、やべえよ、とめねえと!」
「リン……」
気づけば、いつの間にか隣に見知った男が立っていた。
「何があったんだよ!?あいつ、完璧キレてんじゃねえか!!」
「あ、ああ…」
「ああじゃねえよ!なんとかしねえと…っ!」
「なんとかって、どうすんだよ!?てめえにとめられんのか!?」
リンと二人がかりでいっても、抑えられる自信はない。
(誰があんな奴、止められ──────!)
いた。一人だけ。
三年でも二年でも教師でも無理だろう。けれど、一人だけ。
一瞬の躊躇いの後に、覚悟を決める。ほかに手はない。
急がなくては、坂本は本当に殺してしまう。
「リン」
「くそ、あいつほんとに殺しちまうぞ!」
「わかってる。俺が止めてるから、その間に」
いいながら、そっと足を踏み出す。気づかれて、あの目をもう一度見れば、きっと立ち竦んでしまうだろう。
「はやく、葛西さんを呼んでこい!」
止められるとしたら、あの人しかいない。
中編を作るつもりはなかったのに…!なんでか終わってませんが、次にはちゃんと終わります〜
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