幕間 満月の夜





 ある朝突然に、世界が一変した。
 何の前兆もなく襲い来る、壊された平穏の上に。


 変わらぬ人と、光の祝福を受けた人と、闇に魅入られた人。
 唐突に分けられてしまった三つの世界は、共存できなかった。


 そして、闇に魅入られた人は狩られた。

 彼らは、人の心臓を喰らって下僕と化すことが出来たから。




 
 坂本は、白の炎だった。
 葛西は、黒の炎だった。

 葛西は捕らえられた。
 だから殺される前に黒の収容所を仲間と逃げ出して、逃亡者になって、人殺しになって、そして全て壊されて。



 日に日に追い詰められていく。
 その苦痛の中で、あるとき、一年前に別れた相手と連絡をつけてきたのは葛西ではなかった。
 けれど彼は、約束を望んだ。






 やがて、満月の夜が来た。






 乾いた大地とひび割れた建造物。
 木は一年中葉をつけているものばかりが、青々と茂っている。

 
 工事が途中で終わった、今は鼠すら住まない瓦礫のビルに明かりは無かった。

 ああやっぱり、彼はこないのだ。
 わかっていた気がした。

 廃墟のビルを外からしばらく見つめて、やがて葛西は足を踏み出した。


 これで終わると、思った。
 帰ってこいと、必ず戻って来いといわれたけれど。

 答えは出た。
 どこかで誰かが安堵の息をつき、
 ………どこかで誰かが、ゆっくりと、息絶えた。

 それでも足を止めないのは、ここまで来てもなお、灯りさえ点いていないというのに、縋ってしまっているからだ。
 軽く、笑った。

 これでいい。これでいいはずだ。
 来てはいけない。幸せになって欲しいから。たとえそこに自分の場所は無くとも。

 けれど。
「裏切り者」
 と、小さく小さく呟いた。
 本当にこれで最後だから、これで終わるから今だけは諦めるために。
 小さく、恨み言の一つでも呟けば、もう死んでもかまわないと思えるから。



 ひび割れたコンクリートを約束の場所の一歩手前まで踏みしめた。
 心臓が狂ったように音を立てる。
 だが、全て無視した。突き刺さる痛みも、襲い来る絶望も、もはや抗う必要はない。あと一瞬で、全て終わる。
 靴の裏が、じゃりじゃりと音を立てた。

 そして全てが終わるはずだった。




「遅い」

 唐突にかけられた声に、のろのろと視線をめぐらせ、見つけた。

 馬鹿だ。
 愚かな夢を見ている。

 わかっている。
 これは嘘だ。

 いる、はずがない……………………………………………夢でもいいから覚めないでくれ。
 幻でもいいから消えないでくれ。会いたかった。



「会いたかった」
 会いたかった会いたかった気が狂うと思ったどうか傍にいてなんでここにいないのかと呪った。
 いや、いる。今、目の前に。
 きっと気が狂ったのだ。よかった。狂気が見せる夢がこんなに幸せなものだとは思わなかった。

「葛西、お前な、遅刻してきたくせになに言ってやがる!」
 壁にもたれていた背を起こして、呆れたように坂本が言った。

「ったく、ちっとも変わってねえな」
「会いたかった」
「はいはい、そーですか」
「………さかもと……?」
「なんだよ。…なに呆けてんだ?」

 まさか。
 そんなはずない。いるわけが無い。
 これが、夢じゃないなんてまさか………

「葛西?どーした?」


 息絶えたはずの誰かが、泣きべそをかきながら笑った。


「さか…もと……?」
「どうした?大丈夫か?」
「………………………………会いたかった、会いたかった会い会いたかった、ああああうああああああ!!!」

 気が狂うかと思った。俺は人を殺した。追われて仕方なく殺した。殺したくなんてなかったのに。
 追われて、逃げて、殺して、また追われて。

 会いたかった。ただ会いたかった。

「俺も……会いたかった、葛西」
 慰めるように回された腕にすがり付いて、きつく抱きしめた。



 満月の光を浴びて、誰かが泣き笑いの声で言った。

『だから、言ったろ?そんなんじゃ、なんも、変わんねえって』





 葛西の、立場とか力とか罪とか、そんなもんじゃ、何も変わんねーよと。






「俺は殺したんだ……怪我もさせた、だまして盗んで殺して傷つけて、最低の事ことばっかやったんだぜ?わかってんのかよ……」
 そうしなければ生きていけなかった。
 それでも人殺しのレッテルは消えない。
「……馬鹿あほマヌケ。それでなにが変わるってんだよ」

 一年ぶりの体温に縋りつく。

「も一回、言え…」
 何度でも言ってくれ。
「………なにも、変わんねえよ。ずっと、会いたかった。当たり前だろ」



 最後は少し照れたように、坂本が言う。
 当たり前じゃない。そんなことはこの親友しか言わない。


 けれど坂本だけは、そう言って笑う。
 裏切るわけがなかった。
 世界が敵に回ったところで変わらないと言ってくれる彼が。


 灯がともる。目には見えない、灯がともる。

 ずっと、その言葉が聞きたかった。そう言って欲しかった。

 彼だけが、正気を保つ最後の糸だった。



 抱きしめれば、心臓の音が聞こえた。














  少し過去編

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