落とし物 7
俺はどこまでも自分本位なんだよと、いつだったか親友はそう笑った。
あれはいつだったか。そう確か、冬の、寒い日だった気がする。
寒がりな男は太陽の日差しから離れようとせず、分厚い雲の隙間から差し込む光を頭から浴びていた。
冬の気温は不安を煽る。いつになく不安に駆られて、普段なら聞くはずのないことを、聞いたのだ。
それは信頼を向ける彼にとって、ひどい質問だった。俺はお前を信じていない、そういったも同然の言葉だった。
だけど、坂本は笑った。
沈黙の後で、彼は笑った。
俺はどこまでも自分本位だから、だから、許してやるよ。腹立つし泣きてえし悔しいけど、ほんとは一発殴ってやりてえけど、許してやるよ。俺は今幸せだから。俺を信じないおまえでも、一緒にいると幸せだから。
それがどれほどの力を持つか、まるでわかっちゃいない顔で、そんなことをいった。例えば坂本は、そういう人間だった。ひどい殺し文句を、馬鹿みたいに簡単に言ってしまう、人間。
温和そうに見えてその実、七難どころじゃなく難のある男だったからお世辞にも人付き合いがうまいとはいえなかったけれど、そこが逆に安心できた。奪われる不安もなく、きっとずっとこのまま時が流れるのだと思っていた。
ほんのつい、三十分前までは。
店の中には気まずい沈黙が流れていた。
誰もがお互いに目配せをしながら、なにもいえない。
いや、待っているというほうが正しいだろうか。待っている、彼らの頭が話し出すのを待っている。
けれど葛西は、沈黙を守っていた。
あらかたの事情を聞いてから、葛西はずっと不機嫌そうに黙ったままだった。
坂本が戻ってきたときのように取っ組み合いのケンカをするでもなく、ただあからさまにまともでない目の色で押し黙っていた。
それが怖い。
いっそ怒鳴り散らしてくれればまだ対応のしようもあるが、むすっと黙り込まれたままではうかつに話し掛けることも出来ない。いつもならこんな時は、その凶暴な目つきを全く恐れない唯一の男がなんとかしてくれるのだけれど、今は、その人が元凶なのだから手におえない。
息苦しい雰囲気に正道館の面々が窒息死十秒前に陥ったとき、ようやく沈黙を破ったのはやはり、記憶がなくても性分は変わらない坂本だった。
「えーーーーーっと!葛西!葛西・・・・葛西・・・・・さん?」
記憶がないせいかやたらと幼い仕草で坂本が首をかしげると、ただでさえ張り詰めていた空気が手の施しようもないほど凍った。
不運にも店内に居合わせた面々は、凍りついた姿勢のまま目だけで葛西の様子をうかがった。
そして一様に泣きたくなった。
葛西の目がやばい。顔つきもやばい。心底怒り狂っている人間というのは、うわべでどれほど冷静を装っていたって周囲はわかるものなのだ。
(『さん』はまずいっすよ『さん』は・・・・・!!!)
せめて態度だけでいいからいつも通りに取り繕ってほしい。表面だけでいいから!お願いですから!と半泣きで祈ってしまう。
だって坂本だけなのだ。この界隈で葛西を『葛西』と呼んでいて、葛西がそれを当然のこととしている人間など坂本しかいない。葛西、と、葛西さん、とでは天と地ほどの差がある。本人がどう思っているかはともかく、聞いてる側にとってはそうだ。
正道館の誰にとっても、それこそ先輩後輩全ての人にとって『葛西さん』であろうとも、坂本にとっては『葛西』なのだ。それが当然だとおそらくは葛西本人も考えていたはずの立場を、坂本は、記憶とともにどこかへ落としてきてしまった。
まずい。
ひっじょーにまずい!!
坂本本人はどうでもよさげな顔でのほほんとしているが、どうでもいいなんて思える人間は坂本だけだ。その上昇志向の枯れ果てたというか生まれるときにどっかに忘れてきたようなところが、坂本らしいともいえる。いえるが、今はそれを美点だと思える余裕はない。
坂本の姿が見えなくなって三日、葛西の理性はいつタガが外れてもおかしくなかった。
すでにいっぱいいっぱいだったのだ。どうにか正道館の面々は被害を免れたが、この三日間のうちにほんの僅かでも舐めた真似をした野郎どもは、まとめて血反吐を吐くはめになった。
ようやく坂本が見つかって日常が戻るかと思えば、記憶喪失。最悪だ。恨みでもあんのか神様。
ストッパー不在時の葛西の容赦の無さを見せ付けられた正道館の面々が、戦々恐々として見守る中で葛西はやおら腕を上げ、予備動作なしで坂本の腕を掴み上げた。
「痛えな!なにしやがる!!」
「帰んぞ」
葛西の声が恐ろしく低い。
「どこに?」
「いいから、帰るぞ」
坂本の隣に座っている男には一瞥もくれず、葛西は立ちあがった。坂本の腕を無理やりに掴んだまま出て行こうとする。腕を掴む手に込められた力に、坂本は顔をしかめた。
骨が軋んだ。必要以上に込められた力に、気を抜くと腕を折られそうだった。
折られそうだと思って、坂本は苦笑する。なぜかそれは、想像すら出来なかったからだ。このまま腕が折られてもおかしくないほどの力が込められていることを感じながら、実際にこの男がこの腕を折る光景など想像すら出来なかった。
だがこのまま諾々と引っぱられていくのも癪で、葛西に引っ張られていないほうの手で鬼塚を掴んでみた。
「俺を巻き込むんじゃねえ!」
「いいだろもうちょっと付き合ってくれたって、な!?」
「いーやーだー!!俺は渋谷にかえんだよ!」
「俺の苦境を見過ごして帰るってゆーのか!?もう飯作ってやんねえぞ、コラ!!」
「坂本」
鬼塚と坂本のじゃれあいが始まりそうになった瞬間、葛西が、恐ろしく冷えた声で名を呼んだ。
坂本にはなぜだかさっぱりわからなかったが、明らかに先ほどより状況が悪化した。
息を吸う、その息ですらピリピリと痛い。酸素が怒りの塊のように、肺の中で踊る。この目つきの悪い金髪の纏う怒りが、空気を支配しているようだった。
「お、鬼塚頼む!人助けだと思って!!」
泣きの入った声で坂本が鬼塚を引っ張る。鬼塚を右腕で引っ張ると、掴まれている左腕の痛みが増してさらに泣きたくなった。
「・・・・・・・あのな、行ってやってもいいけど、逆効果になるぞ?」
鬼塚がなぜかやけに哀れみのこもって目でいうのを見て、坂本はいっそう右腕に力を込めた。
「わけわかんねーこと言って、お前だけ逃げようったってそうはいかねえかんな!!」
「・・・・・その超楽天的な思考回路はいっそ見事だけどな、もーちょっとまともに考えてみろよ?」
「んだよ?」
「行方不明だったんだろ、坂本くんは」
深い色の目で鬼塚にいわれて、坂本は驚いたように瞬きした。
そして、いまだ自分の腕を握り締めている葛西を見た。
ようやく、葛西を見た。
纏っているのは怒りの色だったけれど。その目にあるのは真っ暗な色だったけれど。
感情の読み取れないその人に掴まれた腕からは、熱が伝わってそれはまるで感情そのもののようだった。
玩具を離そうとしない子供のように。どうしてもどうしても手放せないのだと、そこに理性も理屈も入り込む余地はない。ただただ必死で、純粋な欲望。
掴まれた左腕の痛みはどんどん酷くなってきている。けれどこの手の人はそんなことを考慮する余裕もなく、離せないのだと、左腕の痛みが言っていた。
離すのが怖いのだと、その手から伝わる熱が訴えていることにようやく気づいて、坂本は力を抜いた。
もしかしたらこのままボキっといってしまうかもしれない。けれど、記憶を無くして空っぽになったはずの頭さえ、こうするのが一番いいのだと主張するのだ。もうどうしようもない。
わずかに葛西が安堵したのがわかった。
なおも腕に込められた力が緩むことはなかったけれど、それでも、わずかに。
(ああ、なんだ・・・・・・)
心配をかけたのだと、ようやく坂本は気づいた。
向けられていた感情の意味を悟ると、助けを求めた右腕も力を失っていった。
張り詰めた空気がわずかに緩んだ瞬間、狙い済ましたように鬼塚がにこやかに笑った。
「頑張れよ!俺は遠くから祈ってるからな!!」
「え?」
「行くぞ」
変わらずに恐ろしく低い声で葛西が言う、その音はやはり恐ろしい。
心配されていたのだと遅すぎながらも気づいた坂本だったが、それでも怖いものは怖い。
とっさにもう一度鬼塚の腕を掴もうと振りかえると、つい一瞬前まで男がいたはずの席は空っぽだった。
「鬼塚!?」
悲鳴の混ざった叫びとともに顔を上げると、店内の奥の奥のおくーのほうに、コートが見えた。
いつの間にか、ありえないすばやさで人災指定の男の射程距離から遠ざかることに成功した鬼塚は、爽やかに笑っていった。
「死ぬなよー?」
「なんで疑問系なんだー!つーか一人で逃げるな卑怯者ォー!!」
ついつい坂本がツッコミを入れると、葛西の握力がアップした。
あまりの痛さに、ついに折れたかと思うほどだった。どうもこの握力の強さは、鬼塚に助けを求めると比例してアップするらしいということに、ようやく坂本は気づいた。遅すぎた。
血を止められた左手の指先がジンジンしてきて、坂本は本当に泣きそうだったが鬼塚は楽しそうだった。そりゃもう目一杯人の不幸を面白がっていた。
半泣きになっている坂本に親指を立てて、キラキラと笑って言った。
「グッドラックくろすけ!」
「鬼塚のアホォーーーー!!!!」
しかし鬼塚は軽やかに親指をたてたまま安全地帯から出ようとせず、坂本は半泣きの顔で抵抗空しく引き摺られていった。
次回最終回!(たぶん)(しかし最後の最後まで予想外に鬼塚の出番があったなー)(でも最終話は葛西と坂本の二人です)(ラブラブに・・・・なるといいなあ・・・・)
8へ