春 4
ここまでくるまでに失ったものが、あまりに痛みを訴える。
くたくたになった体を神谷は重力に逆らわずにベットへ投げ込んだ。布団に顔を沈めて、心地よい睡魔へ飲み込まれるときを待つ。
たとえ唐突に痛みを思い出そうと、叫びだしそうな苦痛に襲われようと、見ない振りで目を閉じる。
そうしなければ耐えられない時だってあるだろう?
白い壁をイメージする。
心の全てをその壁で覆う。
白一色の壁で覆う。
そこに全ての痛みを塗りこめる。浮かび上がろうとするたびに、上から白いペンキを塗る。
思い出さないように目を逸らしながら、ペンキを塗りつづける。けして直視できない、けれどその曇りなき白さに安堵する。
繰り返し繰り返し、上から白く塗りこめて、全てを忘れる。
思い出という名前の痛みの上に、白のペンキを塗りつづける。
そうして、このまま夜が明けなければいいと思う。
それが無理なら、どうかこのまま目が覚めなければいい。何度朝がこようと、永遠に眠りつづける人になりたい。
『神谷』
(思い出すな)
『お前にスタメンの・・・・・・』
「大丈夫大丈夫大丈夫だ、大丈夫・・・・・」
大丈夫だと繰り返しているうちは、けして大丈夫にはならない。わかっていたって、繰り返すしか出来ない。
このまま目が覚めなければいい、そう何度願っただろう。
きっと逃げているだけだろう。甘えてるだけだろう。この絶え間ない自己嫌悪でさえ、甘えでしかないんだろう。ならもうそれでいい、それでいいから静かに眠らせてくれ。
もう何も考えたくない。
自分を責めることにも、もう疲れた。
このまま時が過ぎていけばいい。誰もいらない。サッカーがあればいい。静かに、静かに。
この静かな世界の中で、静かに生きていつか死んで。
『神谷』
「うるせえ・・・・」
黙ってくれ。静かに眠らせてくれ。あんたにもう会うことはない。二度と、会わない。
だからもういいだろう。
苛立ちと怒りの響きしかない声など、体から出て行ってください。
そうでないといつまでも、いつまでも、傷口がふさがらない。
だから休むのは嫌なのだ。封じ込めた思い出が、思い出したくもないそれが、隙間をかいくぐってきてしまう。忘れてしまいたいのに。思い出したくなんかないのに。
(もういい。もういいんだ)
黙り込んで、世界を閉じて、心を閉じて、誰にも影響を与えず、誰の影響も受けず、ただ静かに。
いつか痛みにも慣れる。
誰が悪かったとかなにが悪かったのかとか考えて考えても答えはでない。だからもう考えない。裏切られたなんて思ったところで自分が惨めになるだけだ。そしてもうこれ以上惨めになりようのない現実。結局、原因は見えなくても結果はある。直視すれば泣きたくなってしまうそれと、これ以上向き合うことが出来ない。
(俺は弱い)
弱さを責めることで自分を奮い立たせてきた。でも今はもうそれすら辛い。立ち上がる力が尽きた。もうこれ以上何も考えたくないんだ。壊れてしまったものがたくさんありすぎて、笑い方すらもう思い出せない。あとは静かに自分の愚かさを嘲う。どうして、あの瞬間までどうして、・・・・だけはわかってくれるなんて思えてたんだろう。
痛い。
泣いたら負けなのに滲んでくるものがあって、慌てて息を深く吸う。
忘れたい。それが無理ならもう、眠りつづけたい。それさえかなわないならどうか、誰も触れてこないで欲しい。
『神谷』
「だまれだまれだまれ・・・・・黙れえ・・・・」
絡み付いてくる過去が、痛みしかくれない。
誰か。
誰か・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この暗闇に届く声なんて、あるわけがない。
「神谷」
不意に、耳元で声がした。
ぱっと身を起こしても、誰もいない。暗闇が広がるだけだ。
当然のことで、神谷の部屋には神谷しかいない。
それでも、
「やけに・・・・・」
リアルだった。
それでも空耳でしかなく、一人恥かしくなって顔を覆う。
(よりによって、なんで・・・・)
なんで、あの人の声なのか。あの人の、クセのある、あの声。
聞きたくもないのに、どうして、拒んでいるのに、どうして。
呼びつづけてくれる、唯一のあの声。今だれよりも聞き慣れた、あの呼び方。
(・・・・・・・・・・・・草薙さん)
だれの声も、彼の声も欲しくない。それは本当だけど。
一時だけ苦痛をぬぐうその声に、何故かひどく安堵して、神谷は深い眠りについた。
束の間の安らぎ。明日はまた痛みの続き。この逃げ切れない現実が変わる日などくるのだろうか?
あと少しでようやく春編が終わる(気がします)
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