春 5



 口の中に血の味が広がる。
 殴られたのだと理解するには、数秒の間が必要だった。
「どうした?かかってこいよ」
 涼しげな顔で男が手招きする。その仕草に、一瞬の怯えを弾き飛ばして頭に血が上った。







 実力を測るためのテストは、順調にクリアしていっていた。少なくとも神谷は、そう思っていた。
 受験の間は練習相手がいないのが難点ではあったが、その分基礎練に力を入れていたし、入学してからも自主練はかかさなかった。一軍入りできるだけの成果は出せている、それは確信であり事実だった。
 淡々とテストをこなしていった。そこまではよかった。最後に、選抜メンバーで紅白戦をすることになるまでは。
 試合は散々だった。ゲームの内容ではなく自分のプレイが、まずかった。選抜メンバーは、さすがに帝光の中で選ばれただけあって誰もが高校一年とは思えないレベルだったけれど、パスを出せる位置に必ず誰かが走りこんでいたけれど。
 駄目だった。自分が、どうしてもパスが出せなかった。
 怖いのだ。
 わかっていた気がした。はじめからこうなると、試合をはじめる前からわかっていた気がした。実際それが目の前に示されると、もう笑うしかないけれど。
 紅白戦のときだけではあったけれど仲間となったメンバーの言葉にも、神谷は耳を貸さなかった。松木の指示も田辺の制止も聞かなかった。最後には怒鳴られても怒られても、まるで聞えていないように無反応だった。
 誰の言葉も聞かずに、一人で無理にボールを運ぼうとした。それはまるで、かつて責められたとおりのプレイだった。身勝手なプレイだと責められた、そのとおりのプレイをなぞったようなものだった。
 ここにいるのは、中学時代の人間とは違うのだと理解していた。
 していたからなおさら、同じことを繰り返すのが怖かった。
(いいんだ・・・・・・)
 ひっそりと心の中で呟く。
 こんな結果では一軍入りは出来ても、けしてスタメンにはなれないだろう。それでもいい。もう、いい。
 神谷はなにも話さなかった。終始無言で、制止の言葉を振り切った。
 大差はつかなかったのが唯一の救いだ。試合後はもう誰もなにもいわなかった。突き刺さる視線を無視して、神谷は一人笑った。
 笑うしかなかった。
 怖いのだ。自分でもおかしいと思う、だけど、もう一度あんな思いをするくらいなら最初からなにもないほうがいい。
 また否定されるくらいなら、最初から自分で壊してしまったほうがいい。信頼も友情もなくても、サッカーは出来る。ならもう、それだけでいい。
 繰り返すのはごめんだ。誰もいらない。誰かに深入りしようとは思わない。だから、誰も触れてこないでくれ。
「おい」
 低い声が神谷を呼び止める。けれど神谷は、視線すら返さなかった。
「神谷」
 振り返らない。だから呼ばないでほしい。呼ぶ声を平然と無視するには、まだなにかが足りない。
「神谷」
 神谷は黙って通り過ぎようとした。その肩を、GKの節くれ立った指が掴む。
 そして、一瞬の衝撃。気づいた時には、頬にじんじんとした熱を抱えて地べたに座り込んでいた。






「ほら、来いよ。それとも神谷くんには日本語が通じねえのかな?」
 あからさまな侮蔑の言葉に、考えるより先に手が出た。
 土を蹴って跳ね起きる。その勢いに乗せて突き出した拳は、草薙の顎をきれいに捕らえた。
 手加減なしの一撃に、唖然として見守っていた周囲はどよめいたが、殴られた本人はたいして痛そうな顔を見せなかった。
 それどころか、殴られた顎をさすりながらまんま悪ガキの顔で笑うと、とっさに殴り返してしまった手を見つめて呆然としている神谷の腹に蹴りを入れた。
「がっ・・・・・・・うあ・・・・・・」
 無防備にしていた部分から息が詰まる。もう一度地面に転がされて、神谷はうめきながら息を吸った。
「どうした?立てよ。手加減してやったんだぜ。それとも、尻尾巻いて逃げ出すか?」
「・・・・・っざけんな!!」
 胃からせり上がってくるものをもう一度押し込むように息を吸って、神谷は立ちあがった。
 浅く息を吐いて、吸って、もう一度殴りかかる。ケンカには自信があったが、軽い動作でかわされた。腕ははじかれて、顎に重い一撃を喰らうはめになった。
 そのあとはもう、手加減なしの殴り合いだった。地面に寝た状態から神谷が草薙の腹に蹴りを入れれば、顔面を思い切り殴られて唇が切れた。立ち上がろうとしてふらつく体に、また草薙の足がのめり込む。
「なにしてんだ!やめろよ二人とも!!」
 ようやく我に返った周りの人間が慌てて止めに入ろうとするのを、草薙が一喝した。
「来るんじゃねえ!手ェ出したら殺すぞ!!」
「な・・・・・なにいってんだ!やめろって!!」
 だが、止めに入ろうとして、みな足が進まない。草薙の気迫は本物だった。手を出せば、本当に殺されかねないと思ってしまうような、異様なまでに研ぎ澄まされた空気を纏っていた。
 そうこうまごついている間にも、草薙は手を止めない。神谷も相当ケンカ慣れしているほうだったが、草薙のそれは比べものにならないほど一撃一撃が重かった。見るまに形勢は決まっていく。神谷がしまいには地面に叩きつけられたまま立ち上がれず、土を掴みながら荒い息で足掻いているのを見て、帝光学園のキャプテンは半泣きになって二年のエースに縋りついた。
「岩上!!!おまえの相棒を止めろ!今すぐ!!」
「すいません、無理です」
 なんともいえない気まずげな顔で、二年のエースは首を振った。
「京悟がああなったら誰がなにいっても無駄ですよ。大丈夫です、ああ見えて手加減しているはずですから、死にはしません」
「そういう問題じゃないだろー!!!」
 しょせんコイツも草薙の幼馴染かと三年のキャプテンが泣きそうになった瞬間、ひときわ大きなどよめきが上がった。
「それはやめろ神谷・・・・・!」
 叫んだのは松木だったか、ほかの誰かだったか。なにかと思って振り向けば、ふらつきながら神谷がなにかを掴んで殴りかかるのが見えた。
 なにかを掴んで・・・・・!?
「石だ!」
「やめろ神谷!」
 制止の声は神谷にとって意味をなさない。振り上げてしまった腕は止まれない。
 けれど、薄茶色の髪と猫のような目を持った男は逃げなかった。
 避けようと思えば避けられたかもしれない。神谷にもためらいはあったのだから。
 けれど動かなかった。
 わずかに腕をあげて、叩きつけられる力の勢いをほんの少し殺しただけだった。
 そのおざなりなガード以外は微動だにせず、まっすぐにその目で神谷を射貫いた。
 あるいはその目こそが、唯一意味をなす制止の声だったのかもしれない。
 振り下ろす腕の軌道はわずかに逸れ、草薙の頬を抉る程度で終わった。
「・・・・いって」
 たいして痛そうでもない声を出して草薙は笑ったが、多少の肉を持っていかれた頬からは血が滴っている。
 神谷は血のついた石を握り締めて動かなかった。動けなかった。意志とは無関係に体が震えた。赤い色が目に焼き付いていた。
 草薙は、そんな神谷にわずかに苦笑すると、無造作にその腹に蹴りを入れた。
 抵抗はなく、神谷は勢いのまま地面と幾度目かのキスを味わった。それでも、地面に寝たまま動けなかった。
「神谷」
 草薙が名を呼ぶ。それを目だけでのろのろと見上げて、神谷は顔をゆがめた。
 どうしていいのかわからないと。怒ることも叫ぶことも泣くことも出来ない。
 それでも草薙は目を逸らさなかった。
 ここで目を逸らしてはいけないのだと、本能的に悟っていた。
 神谷は、小さな囲いの中で、世界を恐れて目を潰した。
 その暗闇に、もう一度手を入れたかった。
「神谷、恐怖でもいいから俺によこせ。まだなにも聞いてねえんだよ」
 その言葉の意味がどこまで通じたかわからない。ただその声は真摯で、普段のふざけた行動が嘘のように真摯で。
 神谷は目を逸らすことも出来ずに混乱する。なにをいえばいいのか。
 なにか、なにか、本当にいっていいのか。
 喉の奥に長い間積もって大きな塊になった言葉達を吐き出すのは容易ではなく。
 待つ草薙と混乱の極みに達した神谷の、静まり返った空間を壊したのは、この季節ではまだ冷たい水道水だった。
「いい加減にしろお前ら!!頭を冷やせ!!」
 勢いよく水を撒き散らすホースを片手に半泣きで叫ぶ先輩の姿に、草薙は肩を竦めた。
「あーすいませんキャプテン」
 全然気持ちのこもってない声で草薙が謝った。
 それから、頭からぐっしょりと濡れて泥混じりになっている後輩に顔を向けた。
「ほら、お前も謝っとけよ、神谷」
「どうしておまえはそう誠実さがないんだ!この騒ぎの原因が誰だかわかってるのか!?」
「はいはい、わかってますよー」
「ハイは一度だー!!小学校からやり直して来い草薙ー!!」
 キャプテンが顔を真っ赤にして叫んだとき、小さな小さな声がした。
「・・・・・・すいません」
 神谷だった。
「・・・あ・・・・・いや・・・・・・・お前はまあ、一応被害者だしな・・・・」
「うっわ、贔屓だー」
「黙れ草薙!」
 騒ぎ立てる二人を、耳だけで聞いて、神谷はもう一度掠れた声で言った。
「・・・・・・・すいません」
 それは小さな声だった。
 寝そべったままの、かすれた、わずかな一言だった。
 それでもその声が、その言葉が、神谷の言葉だった。
 その場のだれもが初めて聞く、草薙がこんな荒っぽいことをしてまで聞きたがった、神谷の本当の言葉だった。













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