春 6



 誰もなにもいえなくなったグラウンドに、能天気な声が響いた。
「キャプテーン。濡れてむちゃくちゃ気持ち悪ィんで着替えてきてもいいっスか?」
 あちこち顔を腫らして草薙が言えば、常識ある三年生は苦い顔をしながらも頷いた。
「ほら、お前も行くぞ。いつまでも寝てんな」
 そういいながら草薙が手を差し伸べれば、さっきまでの殴り合いが嘘のように、少年は素直にその手を取った。
「ちょ、ちょっと待て!おまえら二人で行く気か!?」
「当然でしょ。それとも何ですか、俺たちにこんな水浸しのままでいろと?」
 風邪引くじゃねえかこの野郎といわんばかりのでかい態度に主将は頭を抱えたが、そこに思わぬ助け舟が入った。
「あの、俺もちょっと濡れたんで、着替えてきていいっスか」
「あ、俺も」
「松木に、田辺だったな?わかった、着替えてこい」
 一年二人に頷いて、主将は、そ知らぬ顔をしているエースをじっと見つめた。
「・・・・・・わかりました。俺も濡れたんで着替えてきます」
 やれやれといわんばかりだったが、草薙を抑える人材としてこれ以上の相手はいない。
 問題児ばかり抱えた主将は、なんだか胃が痛かった。





 部室の中に入り、青のベンチに腰を下ろす。
 濡れた練習着は土に塗れて汚れ、冷ややかに体に張り付いて気持ち悪かったけれど、神谷は立ち上がるのも億劫だった。
 落ち着いてみると、ずいぶんひどい格好だ。
 鼻血は止まったが、唇からはまだ血が滲んでいる。顔はあちこち腫れあがり、明日にはきっと青く変わるだろう。
 まだ新しかった練習着には、靴の跡がくっきりと残っている。
 さんざんくらった蹴りが、今になって聞いてきたのか、腹や胸のあたりが鈍く痛んだ。
 だが一方の草薙といえば、ピンピンしていて、さっきからロッカーをごそごそ漁っている。
 顔も神谷ほどひどくはなっていないし、こめかみの傷もたいしたことがないようだった。
 安堵とともに、悔しさが込み上げる。
 この人は一体なにがしたいのだろう。この男は。
 自分が与えた傷など、まるで堪えていないような、この人は。
「あった」
 ふと顔を上げると、目当てのものを見つけた草薙が、それをもって神谷の前に立っていた。
 そしてそれから、救急箱から、慣れた手つきでガーゼと消毒液を取り出す。
「ひでえツラだな」
「うるせえ・・・・・・」
 だが、草薙の顔は優しかった。
 きっと、勝ち誇った顔をしていると思ったのに。自分が正しいのだと、濁った自信に満ちた目をしているはずなのに。
 優しかったのだ。
 どんなに神谷が否定しようとしきれないほどに。
「消毒の前に顔を洗ったほうがいいんじゃないか?」
「順司・・・・・そういうことはここに着く前にいえよ」
 部室から水道までは少し歩かなくてはならない。
 仕方なく重い体を立たせようとした途端、全身に痛みが走った。
「・・・・っ」
「バカ、無理すんな!」
 苦痛をかみ殺して椅子を掴んだ手を、骨ばった指が宥めるように抑えた。
「俺タオル濡らしてきます!」
 松木が叫んで飛び出していった。
「おーサンキュー。そーいや、なんでお前まで来たの」
「俺はキャプテンに頼まれたんだが」
「そんなことはわかってる。順司じゃなくて、そこの一年だ」
 唐突に話を降られた田辺は、迷うように二、三度瞬きしていった。
「これ以上やるつもりなら、俺、止めますから」
「あぁ?」
「もう神谷だってボロボロじゃないッスか!これ以上は、俺、とめますから!」
 その言葉を、おそらく唯一理解したのは岩上だった。
「なるほど」
「意味わかんねえ」
「お前が、まだ神谷を殴る気だと思ったんだ。三年の見えないところまで連れてきてな。日頃の行いの悪さが良くわかるな」
 一人納得している岩上に、草薙は憮然とした。
「おまえ、この救急箱が見えねえのか」
「いや、見えます、けど・・・・・・」
 見えるが、それを打ち消すほどに草薙はガラが悪い。田辺の顔はそういいたげである。
「こっから先は手当ての時間だ。安心しろよ、これ以上やるつもりは全然ないから」
 言葉の後半は、自分に向けられたものだと気づいて、神谷は目を瞬かせた。
 猫のような目が、困ったように細められているのに気づいて、さらに困惑する。
 なぜか、田辺がいったようなことは欠片も思い浮かばなかったのだ。そんな不安はまるで抱かずに、部室まできてしまった。
 だがその動揺を、草薙は別の意味にとったのだろう。宥めるように安心させるように、男は笑った。
 まるで子ども扱いだ。そう思いながら、嫌だとは感じない自分に気づいて神谷はまた下を向いた。見たくない。
 こんなふうに笑いかけられると、逆に苦しい。
「濡らしてきましたっ!あれ、どうかしたんスか?」
「何でもねえよ、タオルかせ」
 濡らされたタオルが、草薙の手を介して神谷に渡される。
 神谷は黙ってそれを受け取った。
 顔に押し当てると、熱を持った頬に冷えた感触が気持ちよかった。
「そんくらいでいいだろ。さて、消毒の時間ですよ〜」
「楽しそうだなお前」
 岩上の呆れ顔にも男は笑うだけだ。
「くっくっく。痛かったら痛いっていえよ」
 たっぷりと消毒液を含んだ綿をピタピタと傷口に当てられて、思わず顔をしかめた。
「痛いか?」
 黙って頷くと、また聞かれる。
「痛いか?」
「・・・・・・・・・・・・・・痛ェ」
 小さく呟くと、草薙はまた笑ったようだった。
 さっきからずいぶん笑われているのに、嫌な気がしないのはなんでなのか。
「痛いときは痛いっていえよ」

 それが、最初の、壊れる音だった。
 閉じこもった真っ暗な世界。痛みから逃げるための真っ白な世界。なに一つ与えることも与えられることも出来ない、怯えた世界。
 神谷の世界。
 それがわずかに、けれど確かに、壊れた音だった。





 見た目からは想像できないが、草薙は器用だった。
 擦りむいた腕にガーゼを張り終えると、神谷はすっかり包帯男のようになっていたが、それでも下手に巻かれたところはなかった。
「よしと。ほかに痛ェところはあるか?」
 黙って首を振ろうとして、なんとなく思い止まってしまう。
 わずかに目線を上げれば、猫のような目が柔らかくこちらを見ていた。
「・・・・・・ない・・・・・・・です」
 下を向いて呟く。と、同時に、骨ばった手に頭を乱暴にかき回された。
 はねのけようとして、けれど腕に力が入らなかった。
 わからない。
 何もかもが、わからない。わからない。
 なんで草薙は自分の手当てなんかしたんだろう。なんで怒らないんだろう。石で殴ったのに、なんで何もいわないのか。

 わからない。



















6で春編が終わるはずだったのに・・・(汗)でも次で終わります。ちまちま続きます・・・。

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