無意識に伸ばした指の先に当たる感触がなくて、一瞬だけちらと目をやればその箱の中はもう空だった。
いらいらと箱を握りつぶし、短くなったそれをもう一度拾い上げて銜える。
火をつけようとしたその手をやんわりと、上から降って来た手がおしとどめた。
「吸いすぎだぞ」
一つ上とは思えないほど落ち着いたその声を、いや自分が落ち着いていないだけかと埒もないことを思いながら、無視した。
「買って来てください」
そういって空の箱を手渡す。気遣ってくれる人には目もくれずに、ちょうどよく居てくれたなんて思う自分は、最低なんだろう。
カウント・ゼロ 2
「神谷。久保より先にお前が体を壊す気か?見ろこの山盛りの灰皿を」
大真面目な顔で灰皿を目の前にずいっと突き出されて、ようやく神谷はもっていた資料から手を離した。
椅子を反転させて、後ろに立っている男の顔を半眼で見つめる。
「斉木さん・・・・邪魔しないでくれますか」
「邪魔も人生には必要だ。今のお前に必要なのは煙草より休憩。3時のおやつの用意は整ってるぞ」
やたらと笑顔で示されて、資料やら何やらが散乱していたはずのソファとテーブルに目をやればいつの間にか綺麗に片づけられているうえ、可愛いマグカップからはほやほやと温かそうな湯気がたっている。
そのうえおいしそうな団子まで用意してあるとなると、もはや脱力するしかない。
ため息一つついて、かけていた眼鏡を外す。
「あいかわらず手回しのいい・・・・・・」
しぶしぶと諦めて椅子から立ち上がると、酷使されつづけていた体がゴキゴキとなった。
「だろう?手回しマコちゃんと呼んでくれ」
変なポーズをつけた斉木を一瞥すると、もはやなにを言う気も起こらなかった神谷はよろよろとソファに座った。
「うわ無視!?無視なのか神谷!?ハッ、それともこれは愛の放置プレイ!?」
「無駄に手回しのいいマコちゃん。煩いから黙ってください」
一言で斉木を沈めると、神谷はやれやれとマグカップを手にとった。
一口飲んで、かすかに息を吐く。
困ったのだ。
注がれていたお茶は、味も熱さも実に神谷好みで、自然肩の力が抜ける。なんだかんだと邪魔をするこの先輩が、それでいて神谷が本当に集中しているときは決して手を出さないことも知っている。邪魔をされるときは、今もそうだが行き詰まっているときで、だが斉木は決してそれを口にしない。ただ冗談めかして神谷を休ませるだけだ。
本当に、自分なんかには出来すぎた先輩で、だから困る。
そもそも斉木はこの研究室の人間ではなかった。神谷が久保の発病によって、それまでの研究を全て放り投げて畑違いのこの研究室に入ったその一週間後、斉木も入ってきた。『なにしに来たんですか!?』というのが神谷の第一声だったが、結局斉木は笑ったままなにも答えなかった。
本当に、出来た人間だと思う。お前のためになんてなに一つ言わないで自分の世話をしてくれる。
だから困る。困るのだ。
もともと自分の容量は大きくない。まして今は、久保以外を頭に入れる余裕も気遣う余裕もない。斉木の優しさにも、なに一つ返せない。酷かろうが冷たかろうが、態度を改める余裕はない。
「さっさと、俺なんか見限ったらどうですか」
不意に、言葉が零れた。言うつもりだったわけでも、なんの心構えもなかったのだが、どうやら気が緩んでいたらしい。
零れ出た言葉に、斉木は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「なーにいってんだ、俺が面倒見なかったらお前は今ごろベッドの上だぞ。飲まず食わず、寝もしないで研究を続けるんだから」
「それは確かにそうですけど、俺は斉木さんになにも返せませんから。物好きもほどほどにしたほうがいいと思いますよ」
「・・・・・・・俺はー・・・・・お前の世話すんのが好きで、おまえにそういう口聞かれんのも好きで、お前に酷いこといわれるのも好きなんだよ」
「マゾですか、あんた」
「そうかも」
呆れ顔の神谷にあっさり頷いて、それから不意に斉木は真顔になった。
「おまえ、困ってるだろ?」
誰が買ってきたのかわからない謎のピンクのマグカップをことんと置いて、斉木は言った。
「俺に悪いなって困ってるお前が好きなの。こんなこというと軽蔑されそうだけど、おまえが困るのは俺だけだろ?ほかの誰に酷いこと言っても気にしないくせに、俺にだけは困るだろ?それが嬉しい。それだけで十分俺は幸せを感じるわけです。おかわりいるか?」
返事をする前にマグカップはもっていかれた。
給湯室の方へスタスタと歩いていくのは、たぶん、照れ隠しなんだろう。
最後のほうは早口で、聞いてるこっちまで照れそうだった。全くあの人はと、神谷は口元を押さえて笑う。
「軽蔑なんかしませんよ」
小さく呟いて、立ち上がる。
銀色の眼鏡を手に取れば、頭は全て現実へと切り替わった。死神の足音がそこまで聞えている現実を変える為に、この研究を完成させなければならない。
カウント・ゼロの治療薬。世界中が求めているそれ。そして神谷が、ただ一人久保のために、天才と謳われる頭脳の全てをかけて求めているたった一つの薬。
放り出した資料をもう一度手にとって、口元の寂しさに気づいた。切れた煙草を買いに行こうか迷いながらも、腰をおろす。
気の良すぎる先輩のために、ほんの少しだけ禁煙してみるのもいいかもしれない。たとえそれが、三十分もすれば破られるものであっても。
そう思って背伸びすると、もう日が落ち始めているのが見えて、ようやく長い夏が終わるのだと実感した。
な、なんか斉木さんがいい男になってる気が・・・・・なんで?まあ、いつも酷い目にばっかりあっているので、たまには格好良く。
てかこれ、前書いたのは夏だったんですね!びっくりだ!!
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